COLUMN
「随分前から、足の血管は浮いていたんです」と彼女は言った。「でも、これと言ってなにか困ることはなかったのでそのままにしてきました。お医者さんに診てもらってもこれは年だから仕方がないのでストッキングでも履いといてと言われるくらいで手術や治療の話はされませんでした。知り合いで昔に手術をしたことがある人がいるんですけど、その人は手術の後がとても痛くって、入院もしたんだけれどあんなのはもうやりたくないって言ってたんです。それを聞いたら怖くなっちゃって」ふくらはぎの内側に浮いた血管を手で撫でていた。
「今はどんな症状があって、病院に行ってみようと思ったんですか?」と僕は訊いた。
「最近足が重だるくなってきて、すぐに疲れちゃうというか痛くなっちゃうというか。足のやり場がないような感じがするんです。何科に行っていいか分かったんですが、大きな病院には行こうと思わなくって。最近人がたくさん集まるところには行かないようにしているのもあって腰が重くなっていました。娘が調べてくれて静脈瘤のクリニックがあるってことがわかったので行ってみようと思いました」
「そうだったんですね。同じような悩みを仰る方が多いですよ。確かに立派な血管が浮いてますね。足もパンパンに張ってますし、これはちょっとすぐに疲れてしまうのは仕方がないと思います」と僕は言いながら超音波の検査を始めた。
「表から見えているボコボコした血管は超音波で見ると蜂の巣のように見えます。蛇がトグロを巻いているようにも見えるかもしれません。いずれにしても表から見えているのはごく一部に過ぎないんです」見えているものがほんの少しで、重要な問題があるところは全く見えないところにあるのだ。それは生きていく中でなんとなく知っているような気がする。本にはもっともらしく見えないもののほうが大事などと書かれているが、そんなことをいきなり言われてもわかったような気がわずかにするだけだ。
彼女の大伏在(ふくざい)静脈は逆流し、拡張し、蛇行していた。それはふくらはぎの内側のくるぶし近くから股の付け根までの広範囲に及んでいた。途中に枝分かれをしてふくらはぎの後ろ側や太ももの内側に回り込むように血管は蛇行してあてもない拡張を続けていた。見た目は浮腫が強いせいか、血管が埋もれていて蛇行自体はそれほど目立たなかったのだ。
「どうでしょうか」と彼女は訊いた。僕が超音波検査をしている時間が長かったからかもしれない。
「はい、時間がかかってすみません。かなり蛇行がきついので、どうやって治療しようかなと考えていました。昔のように切って血管を抜く手術であればそれほど問題にはならないのですが、カテーテルといって細い管を血管の中に入れて治療をする場合は、あまり蛇行がきつい場合はカテーテルが通らない場合があるんです。そういう場合はガイドワイヤーという特殊な器具を使ってなんとか通すんですが」と僕はできるだけ専門的な言葉を一般的なものに置き換えながら説明をした。僕にとって当たり前の言葉は、下肢静脈瘤に初めて触れる患者さんにとっては何を言っているのかわからないものばかりだからだ。
僕は静脈とは何かを絵を使って説明し始めた。動脈と静脈とどのように違うのか、静脈には心臓と同じように弁があるということ、足にはどのように静脈が走っているのか、それが下肢静脈瘤になるとどうなるのかということを全て絵に描いて説明をしていった。
すぐに理解をする人もいれば、すぐに理解したふりが上手な人もいる。返事が上手な人もいれば、内容が全く残っていない人もいる。これ以上ないくらいに平易な言葉で説明したとしても、その人にどのくらい残るかはそのときはわからないのである。
手術が終わった後に、今日はどんな治療をしたんですか?血管を焼いちゃって大丈夫なんですか?と言われることも珍しくない。そういう時も根気よく同じ説明を繰り返す。
人の言うことを聞いている人は実はとても少ないんだということがよくわかる。でも、そういうものだと思うと腹が立ったりすることはない。普通に生きている中で下肢静脈瘤が出てくる場面なんてほとんどと言っていいほどないからだ。
痛くもない、ただ見た目が悪い、足もつるし、こむら返りもある。少し歩くと浮腫んで足が重だるい。でも下肢静脈瘤だとはほとんどの人は知らないのだ。おじいさんやお婆さんがそんな足をしていたなと思い出すくらいである。
ほとんどの人は年だからしょうがない。医者でも同じことを言う。血管を抜くのは大変だからやめておいたらと。ストッキングを履くしかありません。
いつまでも情報は古いままだ。でも、それではただただじっと足を見て悔しい思いをすることになる。
「もっと早くやっておけばよかった」治療を終えた人たちは皆同じことを言って日常に戻っていく。
「今まで思い悩んでいたけれど、こんなに簡単なんだったら早くやればよかったっけや」と80代の女性が微笑みながら僕に言った。痛みから解放されると人はこんなにも安心した表情になるんだと思った。1ヶ月後、彼女の足はつらなくなり、重だるさやむくみは消えていた。その足取りは同じ人だとは思えないほど軽やかで、杖もついていなかったのだ。
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